芋けんぴ先輩と呼ばれていたあの頃

スペイン語で黄金の地を意味し、南米では伝説の地として伝わるエルドラド。大航海時代には、多くのヨーロッパ、特にスペインの人々は黄金の地の存在を信じ、新大陸を目指したという。

飢えや病気、悪天候などに苦しみ、船員たちは次々と命を落としていった。それでも、一攫千金を掴み取るために航海を続けた。これぞ、ロマン!! 想像しただけで胸が高鳴る。

大学生時代、ぼくにとっての黄金の地は大学生協だった。

黄金は大学生協にあり

朝起きるのが苦手なぼくは、ほぼ毎日朝ごはんを抜いていた。そのせいで午前の授業中、ぐぅ〜と腹の音を響かせることがよくあった。午後は午後で、しっかりと昼食を食べたはずなのに、夕方ごろには腹が空き、やはりぐぅ〜と腹の音を轟かせていた。

絶対に聞こえているはずなのに、周りは何も言ってこない。それが余計に恥ずかしさを増幅させた。いっそのこと「めっちゃ、お腹鳴ってるやん!」とツッコんでくれた方がマシだった。

腹筋に力を入れてみたり、息を止めてみたり。教授の話はそっちのけで、お腹の音を止めることに必死だった。でも、そんな努力も虚しく、ぼくの腹はいつも大絶叫しやがるのだった。

あるとき、この腹の音を止める唯一の方法は、何かを食べることだという当たり前の事実に気づく。そして、大学生協へロマンを求めて、いや、腹の音を抑えてくれるお菓子を求めて、ぼくは旅立ったのだった。

飢えに苦しみつつ、お菓子が置かれている棚を眺める。何か、ないか…。

「こ、これはっ!!」

見つけたのは芋けんぴだった。世間知らずのぼくは芋けんぴというものを大学生協で初めて知った。

袋に描かれているそのお菓子は、黄金色で細長い形状をしていて、艶がありキラキラと輝いている。さながら金の延べ棒のようだった。成分表示を見ると、高カロリーで高脂質。腹持ちも良さそうである。さらに名前に芋がついている。芋といえば、食物繊維が豊富だったはずだ。便秘にも悩まされていたぼくにとって、これは最適なのでは……。

そして、金の延べ棒みたいな芋けんぴを購入することに決めた。

はじめて食べたときは衝撃を受けた。芋と砂糖と蜜がミックスされた甘さ。ポリポリとした歯ごたえのある食感。気づいたら一袋食べ終わっていた。それに満腹感もあるし、お菓子なのに、芋だから食べていてもあまり罪悪感が湧かない。これで一袋100円。最高じゃないか!!

そうしてぼくは、芋けんぴ沼にどハマりしていった。

“芋けんぴ先輩”と命名される

ぼくは飽きることなく芋けんぴを食べ続けた。顎を使いすぎて2つに割れるんじゃないかと思うぐらい、芋けんぴをポリポリと毎日食べていた。

こんなにおいしいものをなぜみんなは食べないのか。ポテトチップスやチョコレートを食べる友だちたちを見て、そんな風に思い始めた。

そして、もっと芋けんぴの美味しさを知ってもらいたいと、ぼくは芋けんぴを周りの友だちに分け与えるようになっていった。

ノブレス・オブリージュである。金の延べ棒を手にしたのだから、独り占めは良くない。一人でポリポリと食べていた芋けんぴを、「これいる? めっちゃおいしいよ」と周りに勧め、芋けんぴを一緒に食べるようになった。

さらに後輩たちには、「お菓子奢ってあげるよ」と甘い誘い文句で大学生協まで連れていき、本人に好きなお菓子を選ばせることなく、芋けんぴを買って半ば強制的に食べさせていた。

そんなことを続けているうちに、一部の後輩たちからは“芋けんぴ先輩”と呼ばれるようになった。

いつどこでも芋けんぴを食べており、目が合うと「芋けんぴいるか?」と言ってくる。「ちょっとおいで」と言われついていくと、強制的に芋けんぴを食べさせられる。芋けんぴ先輩というよりも、芋けんぴ妖怪だった。

好きに条件なんていらない

30歳半ばになった現在も、芋けんぴをちょこちょこ食べている。さすがに毎日は食べていないけれど、無性に食べたくなるときがあって、コンビニやスーパーで買っている。

芋けんぴが好きだ。それは間違いない。でも、周りには芋けんぴが好きということはあまり言っていない。なぜか。“好き”のハードルが上がったからだ。

何かきっかけがあったわけではない。いつからか気づかぬうちに、好きには特定の条件をクリアしていないといけないのではと思い込むようになった。

たとえば、あるミュージシャンが好きだったとする。そのミュージシャンの曲は全部知っているとか、全国で開催されるLIVEに足繁く通っているとか、好きであるならば、そうであるべきだと思ってしまうのだ。

芋けんぴについても同様で、好きであるならば、全国各地の芋けんぴを取り寄せて食べ比べてみるべき、手作りして自分好みの芋けんぴを探求しているべきと思い込んでいる。だから誰かに「好きな食べ物は?」と聞かれても、「いやぁ、特にないですね。どれも好きです」みたいな曖昧な返事をしてしまう。

「きっとぼくよりも芋けんぴが好きな人はいる。だから、ぼくなんかが芋けんぴを好きと言っていいのだろうか」。

そんな考えが頭を過り、自分の好きに自信が持てないのだ。

でも好きとは本来、主観的なものであって、客観的に判断できるものではないはずだ。相対的なものではなくて、絶対的なものだ。だから自分が好きなら好きでいい。

もっと好きなものは好きと言っていきたい。大学生のころは、好きというのに条件をクリアしなければいけないなんて考えたことすらなかった。だから「芋けんぴが好きだ」と周りに言っていた。

その結果、芋けんぴ先輩と呼ばれるようになっただけではなく、周りの人が新しい機会を提供してくれた。

高知県出身の後輩が地元に帰ったときに、高知の芋けんぴを買ってくれて、プレゼントしてくれた。さつまいもチップスやさつまいもクッキーなどのさつまいもを使ったお菓子を紹介してくれた人もいたし、学食で大学芋を奢ってくれた先輩もいた。

そうやって「芋けんぴが好き」と表明したことで、ぼくを新大陸へと誘ってくれる人たちがいたのだ。

だから、好きのハードルが上がってしまっていることを改めたいと思っている。自分の好きが他者と比べて劣っているのではないか。自分の好きはにわかで、まがいものなのではないか。そんな考えは手放そう。

ぼくはやっぱり、芋けんぴが好きだ!!

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執筆:杉浦百香さん
執筆:織詠夏葉さん

佐藤純平

ライター&コミュニティマネージャー。答えのないことを、ああでもない、こうでもないと考え続けるのが好き。足の臭さと猫背が悩み。