アートは不思議だ。何百年、何千年という時を経て、現代に残る作品がある。そんな作品の前に立つと、まるでタイムスリップしたかのような、不思議な感覚に襲われる。
この線を、かつて誰かが筆で描いたのだ。目の前の紙に、布に、私と同じように向き合って。画家のいた場所は、寒かっただろうか、暑かっただろうか。どんな音を聞きながら、筆を運んだのだろう。
手を伸ばせば触れられるほどの距離に、画家の気配を感じる。耳をすませば、息遣いまで聞こえるような気さえする。
彼ら、彼女らの生きた時代と、私が生きる時代をつなぐ。アートには、それができる。
現代と江戸時代をつなぐ江戸絵画
江戸時代の絵画は面白い。大きな戦乱がなく、260年にわたって平和が続いたことで、文化も発展した。京都・大阪で栄えた元禄文化と、江戸を中心とした化政文化。それらは、現代の日本文化とも地続きだ。
そのため、江戸絵画を観ると、自分の中の日本人らしい美意識が刺激されるような気がする。色鮮やかな西洋の油絵とは異なり、絹や紙に墨だけで描かれた作品は地味なようにも思えるが、じっと見つめていると頭の中に日本の美しい情景が広がるのだ。
大胆に取られた余白が、作品に詩情を与える。決して華美ではない。けれど、筆で力強く引かれた線は驚くほど雄弁だ。雪の中で楽しげに転がる子犬たち。悠々と泳ぐ鯉。飛沫をあげる滝。雲の向こうの富士山。見たことがない景色も、どこか懐かしい。
江戸時代に活躍した画家たち
江戸時代の有名な画家というと、中期に京都で活躍した伊藤若冲や円山応挙を思いつく。
緻密な描写で知られる若冲は、鶏の絵を好んで描いた。彼は“升目描き”と呼ばれる技法を生み出したことでも知られている。画面を1cm四方に区切り、マス目ごとに色を塗って作品を作り上げる技法だ。非常に労力を要する描き方であり、若冲を説明するときに“狂気”という言葉が使われがちなのも頷ける。
応挙は、丸くてかわいらしい子犬の絵が有名だ。彼は子犬を30年近く描き続けたという。“日本写生画の祖”とも言われ、写実的な作品を多く残した。
一方、江戸で活躍していたのは、浮世絵師の葛飾北斎や歌川広重らだ。江戸時代の日本各地の風景や、人々の生活が細密に描かれた浮世絵は、当時の写真であるとも言える。
浮世絵をじっくりと鑑賞したい方には、東京・神宮前にある太田記念美術館がおすすめだ。素晴らしい個人コレクションを有しており、海外からのお客さんも多く訪れている。
若冲の世界に触れる一夜

ところで、2025年9月にホテル椿山荘東京で開催されるイベント『若冲と京の美食 ~水墨画と羅漢石を巡る~』が面白そうだ。若冲をフィーチャーし、当時の京の食文化、若冲作品の魅力を知れる内容だという。
イベントでは、若冲が下絵を描いたとされる「羅漢石」が佇む庭園見学を行う。さらに、日本美術史研究者の太田梨紗子さんによる講話と、伊藤家菩提寺「宝蔵寺」所蔵の作品の特別観覧があるという。特別観覧では、若冲が得意としていた鶏の絵を鑑賞することができる。
面白いのは、“アート”と“食”が掛け合わされているところだ。アートと同様、食も過去と現代を媒介するものだと言える。イベントで用意されるのは、京都の伝統野菜や旬の食材を用いた、料亭「錦水」特製の松花堂弁当だ。
若冲の絵にも描かれた「豆腐の田楽」や、京都の伝統野菜である「京壬生菜のお浸し」、夏の京都料理に欠かせない「鱧」を用いた「鱧阿蘭陀煮」、京都・愛宕山麓の名水を使用した鰹出汁など。京都の美食を味わいながら、若冲が活躍した時代に思いを馳せたい。
また、お土産として、若冲の「髑髏図」をラベルにあしらった日本酒が用意されているという。若冲ファンにはたまらない代物だ。
■開催日:2025年9月13日(土)
■開催時間:
<昼の部>
11:30~ 受付開始
12:00~12:50 講話 日本美術史研究者・太田梨紗子氏
13:00~13:20 庭園の羅漢石の見学
13:20〜14:30 お食事 宝蔵寺所蔵作品の鑑賞
<夜の部>
18:00~ 受付開始
18:30~18:50 講話 日本美術史研究者・太田梨紗子氏
19:30~19:50 庭園の羅漢石の見学
19:50〜21:00 お食事 和蝋燭を灯して宝蔵寺所蔵作品の鑑賞
主催 ホテル椿山荘東京
協力 蔵寺、中村ローソク
企画協力 オフィスユーボート
■予約方法:WEB予約限定
一般販売開始 7月31日(木)12:00〜
THE FUJITA MEMBERS先行販売期間 7月17日(木)12:00~7月31日(木)12:00
※ご参加は20歳以上の方に限らせていただきます
■会場:料亭「錦水」
■料金:お一人様 22,000円
※消費税、サービス料込み
※事前WEB決済ご予約制(3日前12:00まで)
■鑑賞作品:京都・宝蔵寺所蔵作品
・伊藤若冲「竹に雄鶏図」
・伊藤白歳「羅漢図」
・松本奉時「蛙図」
■お食事:松花堂弁当
口取り 豆腐と粟麩の田楽 出汁巻き玉子
京壬生菜のお浸し
紫ずきん 才巻 栗蜜煮
かます若狭焼き 華生姜
造 り 本鮪 鯛昆布〆 妻一式 土佐醤油 白凝り酢
煮 物 鱧阿蘭陀煮 楓冬瓜 賀茂茄子 伏見唐辛子 大黒占地
食 事 はつめじろ御飯(国産米)物相にて
香物二種
椀 物 京都・愛宕山麓の水を用いて 萩豆腐 粒蕎麦 小角野菜 坂本菊 蕎麦の芽
宝蔵寺所蔵の伊藤若冲「髑髏図」を描いた日本酒「枡源」150ml付き
■お問い合わせ:03-3943-5489(10:00~19:00)
■URL:https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/event/plan/jyakuchu_rakanseki2025/
おわりに
世界的に問題は山積みだけれど、長い歴史の中で見れば、今のところ令和は悪くない時代だと思う。自由があり、少なくとも身の回りは平和で、“人生100年時代”といわれるほど平均寿命も延びた。刺激的なコンテンツが日々提供され、一歩も動くことなくそれらを享受できる。
ただ、そんな満ち足りた日常が、やけにつまらなく思えることがある。退屈に押しつぶされそうになったとき、私は、遠い昔に誰かが描いた絵の前に立つ。自分を過去に誘ってくれる作品の前に。
当時の人々と同じ目線で、美しいものを一つひとつ見つけていく。鳥の声、花の色、雨上がりの土の匂い。かつて画家たちが感動し、力強く描いたものは、実は私の周りにもあるけれど、意識の端に追いやられていたものだ。
過去を生きた彼ら、彼女らの美意識をインストールする。顔をあげて現代に戻ってきたとき、そこはもう、ただ退屈なだけの場所ではなくなっている。