きっかけは原田マハ。ゴッホの“あしあと”を追う理由。

フィンセント・ファン・ゴッホ。
言わずもがな、西洋美術史において最も有名で影響力のある芸術家のひとりである。

美術史に明るくない私が、まるで何かに急かされるようにゴッホゆかりの地を訪ね歩くようになったのは、作家・原田マハの影響である。
ゴッホを題材にした著書を手に、ゴッホが見た風景を訪ねた旅の記憶を紹介しよう。

わたしのこと

  • 年齢:50代
  • 性別:女
  • 職業:ライター、エディター
  • ライフスタイル:夫、娘の3人家族。現在は夫と猫2匹と暮らす。

きっかけは原田マハ。西洋美術の世界にはまる。

ゴッホの存在を知ったのはおそらく小学生の頃。教科書の中にあった『ひまわり』を目にした時だったように思う。“その鮮やかな色彩と大胆なタッチに直ぐに魅了された”なんてドラマチックなエピソードはない。当時の私ときたら昭和の子どもらしく、画家や音楽家の肖像画に落書きをすることに没頭。ゴッホの名前も覚えちゃいなかった。

その後、バブル期の1987年に安田火災海上保険(現:損保ジャパン日本興亜)がゴッホの『ひまわり』を58億円で落札という、なんともバブリーなニュースをテレビの画面越しに知った。
ほどなくして横浜美術館でゴッホ展が開催。さほど興味はなかったけれど、当時の“ひまわりフィーバー”に乗っかるかたちで来場客の後頭部越しに“鮮やかな色彩と大胆なタッチ”というものをチラリと観た。

当時の私がゴッホに関して知っていたことといえば、生前、1枚も絵が売れなかった苦労人、自分で片耳を切っちゃった危ない人、ひまわりを好んで描いた人。この程度である。
そんな私をゴッホをはじめとした西洋美術の世界へ誘ったのは、作家・原田マハの存在だ。

同氏の著書で初めて読んだのはルソーの代表作『夢』を題材にした『楽園のカンヴァス』。読了後、居ても立っても居られず、所蔵先のMoMA(ニューヨーク近代美術館)に飛んだ。当時、「6歳児が指で描いたみたい」と揶揄されたルソー。今でいうところの“下手うま”なその独特の世界観と、純粋に絵を愛するルソーに感銘し、大好きな画家のひとりになった。

以降、原田マハの小説を貪るように読んだ。『暗幕のゲルニカ』を手に訪れたスペイン・マドリード。ピカソが反戦の思いを込めて描いた絵画『ゲルニカ』から放たれる怒りと悲しみ。心臓をギュッと掴まれたような不安を覚えるほどの衝撃は、今でも鮮明に覚えている。

そして、ゴッホ。
アート小説の第一人者である原田マハが書いた、ゴッホを題材にした小説『たゆたえども沈まず』には、私の知らないゴッホがいた。著者の創作余話と執筆動機が記された『ゴッホのあしあと』、そして、『リボルバー』にも。

悲劇、狂気という言葉が常に付き纏うゴッホだけれど、原田マハが語るゴッホとは、弟・テオに愛され、守られ、純粋に絵を愛するひとりの画家である。

そんなゴッホに会いたくて、『ゴッホのあしあと』をガイドブックに旅に出ることを決めた私は、ゴッホ終焉の地、フランスの小さな村、オーヴェル・シュル・オワーズを訪ねた。

ゴッホが描いた景色を歩く。

パリから郊外電車で1時間ちょっとの場所にあるオーヴェル・シュル・オワーズは、ゴッホがピストル自殺を図るまでの約2ヶ月を過ごした村である。療養のために訪れたこの地で、なにかに取り憑かれたかのように絵を描き始めたゴッホは、74点の絵画と33点のデッサンをオーヴェル・シュル・オワーズで描いたとされている。

パリの喧騒から離れた静かな村に降り立ち、最初に向かったのはノートルダム教会だ。
12世紀から13世紀にかけて建てられたとされる小さな教会は、ゴッホが描いたことによって世界中に知られるようになった。

『オーヴェルの教会』と名付けられた絵は、パリのオルセー美術館で観ることができる。ゴッホがこのような暗い教会を描いているのは、過去にプロテスタントの牧師になろうとして挫折した経験が背景にあるのだとか。

オーヴェルの教会を後に、畑の小道を進んでいくと一面の麦畑が広がっている。ここは、ゴッホが死を迎える最後の一週間のうちに描いたとされる『カラスのいる麦畑』の風景。

『オーヴェルの教会』同様、私には絵画から漂う孤独感を感じることができなかったけれど、ゴッホが実際に描いた場所から風景を眺めることで、悲しみや人生の終焉を迎えつつある寂寥感を少しだけ、ほんの少しだけ理解できたような気がした。

兄弟の絆を示す蔦のお墓。

ゴッホと弟テオは、『カラスのいる麦畑』を描いた場所からほど近い共同墓地で眠っている。
精神的にも経済的にもゴッホを支えたテオ、そしてその妻のヨハン。ゴッホの死からわずか半年で病死したテオのお墓をヨハンはゴッホの隣に建て、聖書の次の言葉を捧げた。

“二人は生くるにも死ぬるにも離れざりき”

お墓を覆う蔦の花言葉は”死んでも離れない”。
ヨハンがゴッホの名声を確立すべく奔走したことは意外と知られていない。私も原田マハの書によって知った。彼女はゴッホの手紙の重要性にいちはやく気づき、手紙とともに作品を売り込むようになる。
そう、ヨハンがいなければ、わたしたちはゴッホの作品を現世で観ることはなかったかもしれないのだ。

ゴッホは愛されていた。

ゴッホが最後の時を過ごした部屋。それは当時と変わらぬ姿でオーヴェル・シュル・オワーズにある。1890年の5月から7月にかけ、ゴッホはラヴー亭(Auberge Ravoux)の3階の屋根裏部屋を借りていた。屋根裏4畳ほどの小さな部屋である。

自殺を図り、負傷したゴッホはこの下宿部屋に運び込まれ、息を引き取ったとされている。
店主が”自殺者の部屋”と忌み嫌ったため、その後は誰も住むことはなく、現在は「ゴッホの部屋」として公開されている。

寂しさが漂う小さな、本当に小さな安普請の部屋はちょっと息苦しさを感じ、私は長居をすることができなかった。

現在、生前ゴッホが夢見ていたラヴー亭での個展開催のため有志たちが個人所有の作品を集めているそう。今でこそ、世界の名だたる美術館で企画展を開催すれば、多くの人が押し寄せるゴッホ作品だけれど、ゴッホが最後に望んだのは、この小さな部屋での個展だったのだ。

私は少し、感傷的になりすぎてしまったかもしれない。
でも、原田マハの本に出会い、ゴッホが見た景色、過ごした場所を訪れることで、狂気とか、悲劇とか、そんな枕詞がつきがちなゴッホの人生に、”たゆたえない”家族愛をひしひしと感じられた。
それがただただ、嬉しかった。

そして、オランダへ。

オランダ・アムステイルダムにあるゴッホ美術館。1999年に完成した新館は黒川紀章による設計

2023年4月、私はゴッホの祖国、オランダ・アムステルダムに向かった。世界最大のゴッホの絵画、描画、手紙のコレクションを有するゴッホ美術館に行くためだ。
折りしも、まるで原田マハ著の『たゆたえども沈まず』 をなぞったかのようなゴッホ美術館の開館50周年の企画展を観ることができたのは、入手困難とされたアムステルダム国立美術館で同時期に開催された、史上最大規模のフェルメール展のチケットを購入できたこと以上に幸運だったと思う。
(フェルメール展もそれはそれは素晴らしかった!)

テオ、ヨーとその息子から引き継ぎ、今もなお、子孫たちがゴッホの作品を守り続けている想いが、名だたる名画と共に綴られていたことに、なぜか涙が溢れた。

オランダ滞在中、レンタカーで世界で2番目の規模のゴッホコレクションを誇る、クレラー・ミュラー美術館にも行った。『夜のカフェテラス』と『郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像』をはじめ、他にもゴッホの珠玉の作品を観ることができた。自然と調和したクレラー・ミュラー美術館で過ごした時間は、本当に幸せなひとときだった。

オーヴェル・シュル・オワーの駅に咲いていた、季節外れのひまわり

ずっと不思議だったことがある。画家として活動した10年の短い間に、ゴッホが唯一無二の表現を得ることができたのはなぜだろう。

時に酷評され、苦悩しながらも弟・テオの計らいでロートレックやベルナール、のちに共同生活を送るゴーギャンとの出会いが作風に影響したことは間違いない。その背景には、気むずかしくも純粋で、情熱的に絵を愛する人柄があったように思えてならない。

芸術の解釈は人の数だけあっていいと思っている。
私は実際に訪れることで思いを咀嚼し、自分なりの解釈として心に鍵をかけてきた。
時折解き放ち、足元を見つめて、歩き出したり立ち止まったり。
私にとって、それを指南するのが原田マハなのである。

moment

心を突き動かす出会いはいつ、どこで訪れるかわからない。
もしかすると苦悩や迷いをもたらすかもしれないけれど、見過ごすことなく、生きていきたい。

おだりょうこ

猫と旅、音楽と映画で形成されたライター&エディター。旅欲が止まらない旅ジャンキー。雑誌編集、テレビ局勤務を経てフリーランスに。料理は作るの食べるのも得意だったりする。