平野紗季子さんの食エッセイを読んで気づいた、食事の醍醐味はおいしいだけじゃない

夏が近づいてくるとレモンを食べたくなる。

だがそのまま食べるわけではない。レモネードを飲んだり、母が漬けてくれたはちみつレモンを食べる。口に入れると、さわやかな酸味で少しのどの奥がきゅっとなって、その後にくる少しの苦みが好きだ。

最初の印象は爽やかだったのに、あれ?意外と渋めですか、というように表情の変化や新たな一面を見せられたような気になる。姿形は見えないけれど、所在をはっきりとさせるのも上手だ。例えばサラダのドレッシングやタルタルソース。主張をしている感はないのに、さらっとここにいたことを気づかせ、余韻を残す。

こんなレモン分析みたいなのをしてしまったのは、平野紗季子さんの著書『生まれた時からアルデンテ』の影響であり、本書に「のさばるレモン考」と題して、レモンについて語られているからだ。

『生まれた時からアルデンテ』平野紗季子 文藝春秋

「のさばるレモン考」ではこのように書かれている。レモンは一滴でも大いに味に変化を起こす味の乗っ取りの天才で、そのレモンと職人の手仕事によって生まれたレモンのお菓子のおいしさを素晴らしいと絶賛。さらには、味の乗っ取りを引き起こすレモンをうまく使いこなしていないのに、レモンの名を借りたお菓子が多すぎることに警鐘を鳴らしていた。

けれども、私はそれだけレモンに魅力があるということの裏返しなのではないかと思った。レモンの名を借りれば、一発逆転できるかもしれないという淡い期待。レモン好きの私は誇らしくなった。

怖いほどの食への興味

本書は平野さんのあくなき食への興味が溢れた食にまつわる発見や考察が描かれたエッセイ。平野さんのフィルターを通してみると、まったく違う世界を見ているかのようで驚きがやまない。彼女は食に対して尋常じゃないほど真剣で、怖いぐらいだ。

女子会などでよくありがちな「これおいしいよね」みたいな味のすり合わせが辛いと言い、料理の味に向き合いたいのに共食をすることは味を殺すと鮮烈な言葉で語った。食に向き合うことに命をかけていることが伝わってくると同時に、いくら食好きの私でもそんな向き合い方はできる気もしなくて、あたりまえだが彼女には及ばないし、しっかりと距離があることを思い知らされた。

 けれども、読み進めるうちにそうではないのかもしれないと思った。たとえ彼女ほどの情熱はなかったとしても、食というものはみんなに開かれているものだと彼女は伝えてくれ、食への好奇心や想像力をしっかりと掻き立ててくれた。

食べることはとても自由で、違和感をも楽しむこと

手の込んだものこそ料理と思ってしまうが、おいしく食べようと考え行動に移すことで、どんなものでも料理になるのだと、本書に書かれていた。彼女はどちらかというと日常的に料理をするタイプではないらしく、先の言葉は、現代日本料理「龍吟」の料理長山本征治氏の料理論の影響があったようだ。

彼女は、山本氏の言葉にならって、おいしく食べるためのアクションを施した「チーズおかき」という料理を紹介していた。お馴染みの柿の種と(進物用の缶に入ったもの)スライスチーズを用意し、その進物用の缶の穴をめがけて、一口大のサイズにちぎったスライスチーズを投げつけることで一体となり、料理が完成。

これを読みながら思い出したのだが、昔トマトやきゅうりを氷水に浸してきんきんにして、塩を少々かけて、家の庭ならぬマンションの小さなベランダで、丸かじりをしたことがあった。それはまるで田舎の畑で採れたての野菜を食べたような満足感だった。

こういったことも料理の一歩になりうるのかもしれないと思い、実家で甘えっぱなしで料理ができていない私も少し勇気をもらった。

また本書には、コペンハーゲンにある世界一のレストランと評された「noma」(2024年末に閉店予定)の料理を食べたことが書かれている。nomaは「世界のベストレストラン50」では5度の世界1位を獲得し、ミシュラン3つ星。

さぞかし料理がおいしくてたまらないのだろうと思っていたが、彼女からおいしいという言葉は出てこなく、言葉を選ばずにいうと、どうやら口に合わなかったようだ。けれども、おいしいと思えなくても、今まで味わったことのない衝撃体験が繰り広げられ、おいしさを超越した感動が記されていた。

おいしくないから向き合うのをやめるのではなく、今起きていることを素直に受けとめる彼女はやはりすごい。 もちろんおいしいことにこしたことはないが、おいしいことがあたり前という考えを捨てることがあっていいように思う。ましてや自分がおいしいと感じるに到達できないほどの滋味深さなのかもしれない。おいしくないや口に合わないということで、思考を止めてしまってはもったいないと思う。違和感こそ楽しめる自分でいたい。

SNSの発達が感受性を鈍らしてやいないか

彼女も言っていたが、最近はSNSが発達したことで、どうしても答え合わせのための食事が多くなっていると、私自身も感じる。インスタで流れてくるお店情報をどれだけ保存しまくっているかわからないほどだし、食べログ評価を見て、店内の内観写真までくまなくチェック。ついつい保守的な積極性を発揮してしまう。

お店に行ってからも、メニューに写真がなくて友達と「写真つけてほしいね」だとか、「メニューだけではどんな料理かわからないねー、量も多いかな」とかいちいち言っていたことを恥じて後悔した。

そしてこれらが新たな出会いの喪失や感受性を鈍らせてしまう要因なのではないだろうか。一方、彼女の強みは感受性の高さだと思う。その場所のすべてを感じきることをとても大切にしている。味だけでなく、内装、お皿、ホールスタッフさん、お店に来ている人、あらゆることを彼女は毎回新鮮に受け取ることができる。

お店での温かいでき事が味を越える

私もときにはSNSから離れて、通りすがりのお店に飛び込んだり、予習しすぎない勇気を持ちたい。

思い返してみたら印象に残っているお店や味は、想定外のことが起きたり、ネットから探し当てたのではない、偶然の出会いがあったときの方が多いのかもしれないことに気づいた。

お店との偶然の出会いのエピソードをひとつ紹介したい。

 去年の秋ごろだっただろうか、夕ご飯におじいちゃんとおばあちゃんが営まれているお好み焼き屋さんに行った。

大阪に住んでいるが、その日は神戸に出かけていて、どのお店に入ろうかなとうろうろお店を探していた。するとガラス扉の向こうに見えたこじんまりとしたお家のような雰囲気と、TVでバレーボールの試合を観ながら、盛大な拍手をするおばあちゃんの姿にひかれ、そこにした。

モダン焼きと豚キムチと牛すじ煮込みなどを頼んだ。どれもおばあちゃんの優しさがしみ込んだような温かい味がした。

食事をしながら、バレーボールの試合をおじいちゃんおばあちゃんと他のお客さんと一緒に見た。すごいサーブをすると、「わー、すごい」とか、「よータイミング見とるねー」とかおじいちゃんとおばあちゃんのほのぼのしたやり取りを聞きながら、見るバレーボールもご飯も素晴らしかった。

対戦相手がサーブミスしたりすると、おじいちゃんが「ありがとさん」というのが本当に可愛いかった。 だからこのお店の印象は、味以上に、ほのぼのとした温度や空気感、自分の祖父母の家に来たような懐かしいものとして記憶されている。

 レモンはただの酸っぱいフルーツじゃない

私たちは、食のおいしさをいろんな要素を加味して受け取っていると思う。味、店構え、お皿、内装、店内の空気感、BGM、椅子の座り心地、窓から見た景色、店主さんやスタッフさん、そこに居合わせた人たち…。

いろんな要素が混ざり合うことで、より豊かな食体験となり、私だけの大切な記憶となる。だから「おいしい」の言葉ひとつとっても、みんなそれぞれの「おいしい」があり、味の印象や感じ方もさまざまなのだと思う。

冒頭にも書いたレモンだが、私にとって、ほっとして心が満たされる味だ。疲れて帰ってきて、家の冷蔵庫を開けると、ガラス瓶に入ってひたひたになったはちみつレモン。それだけでご褒美だ。

甘さのなかに、すっと通り過ぎる酸味が、心や体にじんわりと効いて疲労がゆるやかになってくるように感じる。誰かにとってはただの酸っぱいレモンでも、私にとってはほんのり甘くて、エネルギーをくれる幸福の味だ。

記憶に残る食事を

『生まれた時からアルデンテ』は、自分がどう感じるのかを大事に持ち続けることの大切さを説いているのではないかと思う。どう感じてもいい。おいしい、辛い、さっぱり、甘ったるい。難しいことを考えるのではなく、素直に感じてみる。それは自分にしか感じられない特別な味だ。

豪華な食事をしたり、おしゃれなレストランに行くことだけが、食の楽しみ方ではない。家で作るおにぎりやトーストだって、十分だ。食事とそのシーンや感情が重なり、おいしい以上の味わいに出会えると思う。

自分にとってどれだけ記憶に残る食事を重ねることができたかが、豊かさにつながっていくのではないだろうか。これからも自分だけの特別な味を探し続けたい。

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はしもとかほ

「誰かの人生のものがたりを紡ぎたい」をテーマに、インタビューライターとして活動中。趣味は京都散策、読書、写真、食、アートに触れること。いつか書評を書くのが夢。