ねこと暮らす。それは下僕になること。

ねこ。猫。cat。フランス語ではchat(シャ)。
それは世界一美しく、気高い生き物である。
言い切るのはわたしが自他ともに認めるねこバカだから。

ねこバカによるねこの話など、ねこ好きではない人にとっては、
さほど親しくもない人様のうちで、良く知らない人様の子どものお遊戯会の動画を見せられるに値するほど退屈なものでしかないことは知っている。

スマホのアルバムの9割を占める、ねこ好きではない人から見ればどれも同じに見える構図の写真を、
「見て見て〜、うちの子、超可愛いでしょ?」
と見せられる苦痛も知っている。

でも、やめません。
だってわたしはねこバカだから。

ねこは“俺様”です。

ねこはとても気高い生き物である。
それは「わがまま」とも言い換えることもできる。

わたしはわんこも大好きだが、ねこに彼らのような順従さは一切ない。
基本、ねこは俺様である。
世界は自分のためにあるとすら思っているに違いない。

良かれと思って買ったおもちゃ。
目の色を変えて夢中になるのは一瞬。
飽きると「くだらないものをいつまでも振り回しんてんじゃないわよ」と言わんばかりの空虚な眼差しで人間を見ている(かわいい)。

気分が乗らなければハンガーストライキなんてお手のもの。
「そのごはん、飽きたわよ。ちゅ〜るくれるまで食べないわよっ」
と、言わんばかりにぎろりとこちらを見てくる(かわいい)。

帰宅すると、「お母さん帰ってきたよ!寂しかった?寂しかったよねぇ」
と、ねこを抱き上げ、頬擦りをする人間にねこパンチを喰らわす(かわいい)。

人間は、ねこに対して自分が親でありたいと思いたい生き物である。
残念ながら気高く、俺様なねこは人間をお母さんとは思っていない。
強いていうなら、
「あんたのことを好きか嫌いかといえば、まぁ、嫌いではないけどね」
くらいの感情だろう。

この、“嫌いではないけど”の虜になるのがねこバカの性(さが)。
ときどき擦り寄って甘えてくる“ご褒美”がほしくて、彼らのわがままに振り回されることが生きがい。
そう、ねことの暮らしは、彼らの下僕になり、それを受け入れることからはじまる。

下僕になるためには、いくつか諦めなければならないことがある。

世界中のソファはねこのもの。

ねこは家の中でいちばん居心地の良い場所を知っている。
それがソファやベッドであれば、人間はくつろぐことを諦めた方がいい。
革のソファは最高の爪研ぎ場。ファブリックも引っかかり具合がなかなかいいらしい。

壁紙、畳、家中のあらゆる場所がねこの“爪研ぎ場”になる。
それをやめさせることはできない。だって、わたしは彼らの下僕だから。

下僕たるもの、人間の都合で物事を決めるのではなく、ねこを中心に考える。
ソファがボロになったっていい。
お気に入りのカゴバッグが彼らにとって最高の爪研ぎならばよろこんで差し出そう。

ねこと暮らすことで、わたしはとても寛容になった。

黒い服は諦める。

ねこと暮らすようになって、わたしは黒い服を諦めた。
どんなにコロコロしようが、「そうはさせない」とばかりに必ずどこかについている毛(うれしい)。

旅先でねこの毛を見つけると、「こんなところにもついてきたのにゃ?」と、愛しさ炸裂。
いますぐ家に帰りたくなる。

クローゼットは白系の服が多くなった。

長期の家族旅行は諦める。

当たり前だが、ねこは自分でごはんを用意できないし、トイレも掃除できない。
言葉を発して感情や体の不調を訴えることもできない。
「あんたが察しなさいよ」な、ねこと暮らすわが家は、家族総出の長期旅行は滅多に行かない。
数年前、夫と娘と3人で出かけたフランス旅行のときは、実家からこれまたねこバカの母を呼び寄せ、
泊まり込み下僕をしてもらった。

旅ジャンキーのわたしがひとり旅をするのは、実はねこがいることも理由のひとつである。
心置きなく旅を楽しめるのは、不在中、夫が甲斐甲斐しく下僕としてお世話をしてくれるおかげである。

ちなみに、ねこから見たわが家のヒエラルキーは、ねこ、わたし、娘、夫である。
あくまで、ねこから見た階層であることを強く言いたい。

ねこはお金がかかります。

ねこは人間を親とは思っていないことは確かだけれど、ねこの感情なんて知ったこっちゃない。
こちらにしてみればねこは家族である。
下僕らしからぬ発言だが、それだけは譲れない。

安全な場所、ごはん、水、健康診断、予防接種。
家族の健康を考えれば至極真っ当なことをやるには、当然ながらお金がかかる。
特に健康診断などの医療費に関しては、一回の通院で数千円〜数万円かかることは覚悟しておこう。
事実、生まれつき腎臓が片方しかないわが家のねこは、毎月の検査と治療に数万円かかっている。
シニアになると心臓疾患など、病気の覚悟も必要だ。

動物と暮らすことは人間のエゴでしかない。
だからこそ、命と向き合い、責任を持たなければならない。

共に生き抜く。

どんなにねこが気高く、美しく、愛らしくても、別れは必ずやってくる。
悲しいかな、われわれ人間が見送ることの方がずっと多いだろう。

15年間連れ添ったねこを見送ったとき、わたしは思った。
ねこは共に生きて“くれた”んだ。その役目を終え、天国に旅立ったのだ、と。

結婚、出産、育児、人生のイベントを共に生きた彼は、
まるで娘の成長を見届けたかのように、去った。
悲しくて寂しくて、彼の気配を探す日々が続いたけれど、
彼を見送ったことでわたしは少しだけ強くなった。

共に生き抜く覚悟。
それはエゴだらけのわれわれ人間が持つべき、ねこへの最大の敬意ではないだろうか。

ねこ。
それは世界一美しく、気高い生き物である。

今日もわたしは下僕となって彼らを敬い、愛している。
「やれやれ、仕方ないわね。わたしもあんたほどじゃなけれど、そこそこ愛してるわよ」

そんな彼らの声を妄想してはニヤニヤする、わたしは正真正銘のねこバカです。

おだりょうこ

猫と旅、音楽と映画で形成されたライター&エディター。旅欲が止まらない旅ジャンキー。雑誌編集、テレビ局勤務を経てフリーランスに。料理は作るの食べるのも得意だったりする。