マラソン。諸説あるようだが、紀元前490年頃にギリシャ軍とペルシャ軍の戦争がマラトンという場所で起こったことが語源なのだそうだ。
勝利したギリシャ軍の兵士ひとりがマラトンからアテネまでの約40kmの道のりを走り、戦果報告を行った。しかし、その兵士はアテネに着いた後に力尽きてしまった。
その故事が由来となり、1896年に開催された第1回アテネオリンピックで約40kmを走るマラソンという新競技が生まれたという。
さらに1908年、第4回ロンドンオリンピックで、当時のイギリス王女アレキサンドラが「城の窓から見えるようにスタートは宮殿の庭にしてほしい」と言い、当初約40kmだったマラソンが42.195kmという中途半端な距離になったそうだ。
初めてこのことを知ったとき「戦争で満身創痍だったのだろうが、人が力尽きてしまうような距離を走るなんて異常だ!」と思った。そんな考えだったぼくが、2024年3月にフルマラソンを完走したのだから、それこそ異常と言えるのではないだろうか。
ぼくのこと
- 年齢:30代
- 性別:男性
- 職業:ライター、コミュニティマネージャー
- ライフスタイル:一人暮らし、インドア派、リモートワーク、夜型
フルマラソンに誘われる
2023年の8月末か、9月の初旬、福井県に住む年下の友だちのもとへ訪れたときのことだ。日が暮れ始めた車内で、その友だちが「福井で初のフルマラソンが開催される」と話し始めた。地域おこし協力隊の仕事をしていることもあり、積極的にそういったイベントには参加したい、と言っていた。
「一緒に出ませんか? 一人だと走り切れる気がしなくて」
「うわぁ、マジか。えー、どうしよ」
二つ返事で答えることはできなかった。
「こんな機会ないと、たぶん出ることないっすよ」
ごもっともだなと思った。それまでに一度たりとも、フルマラソンに出てみない? と誘われたことはなかった。
「出ましょうか!」
一緒にいた別の友だちが言う。
「出るかぁ」
迷いながら、ぼくもそう答える。しかし内心、「えぇ、本当に出るの?」と決心がつかずにいた。その場ではエントリーせず、福井から大阪の家へ帰った。
エントリーへの葛藤
ふくい桜マラソン2024。開催日は3月31日。エントリーの締め切りまでにはまだ時間がある。とりあえず、ランニングをしてみよう。何度か走ってみて、フルマラソンに出るか決めよう。そう思い、少しずつランニングを始めた。
とはいえ、長年の運動不足。家から出て、数分程度で息があがる。足も痛い。走っては歩きを繰り返し、なんとか3kmに到達。フルマラソンでは、この10倍以上の距離を走らなければならない。無理じゃないか。そんな考えが頭をよぎる。
しかし、友だちとランニングアプリで走行距離を共有していたことが励みになった。日に日に増えていく友だちの走行距離。自分ももっと頑張らなければ。ぜえぜえと呼吸を乱し、足を引き摺るようにして、なんとか5kmまで走れるようになった。
でも、そこから壁にぶち当たった。5km以上走ることができない。体力が続かないというよりも、足が痛くなる。はじめは達成感のようなものを感じていたのに、徐々に「また5kmかぁ」とがっかりすることが増えていった。
まだ本番まで数ヶ月あるとはいえ、大丈夫だろうか。一気に不安になる。そもそも、まだエントリーすらしていない。ランニングはしているのに、フルマラソンに出るかどうかぼくはまだ迷っていた。出てみたいという気持ちと出たくないという気持ちのせめぎ合い。ずっと葛藤し続けていた。
それでもランニングの習慣を続け、木々が紅葉をし始めた10月中旬頃、10kmを走れるようになり、ようやくエントリーをしたと思う。締め切りが近づいていて、もうエントリーするしかないと踏ん切りをつけたような感じだった。
ただ少しずつ自信のようなものも芽生え始めていた。3km走るのもやっとだった自分が、その3倍以上もある距離を走れるようになっている。努力は身を結ぶ。ときにはこの言葉に裏切られることもあるけれど、ランニングに限っては信じていいのかもしれない。このまま定期的に走っていれば、42.195km完走も夢ではないのではないか。
そんな期待を胸に、走り続けた。3月を迎える頃には約15kmまで走れるようになった。そして本番2週間前には、20kmを走り切ることもできた。
大会当日。お祭り騒ぎの勢いに乗って
いよいよ本番当日。前日から福井県に入り、受付は済ませていた。朝スタート地点の最寄駅に着くと、それらしき人たちがたくさんいる。まだ寒さが残る季節なのに、半袖短パンの人。受付でもらった桜色のTシャツを着ている人。ハロウィンかとツッコみたくなるような仮装の人まで居た。
「お祭りみたいだね!」
「いやー、すごいっすね!!お祭りより盛り上がってるかも」
周りの雰囲気に流され、浮わついた感じで友だちと話す。
「目標タイムは?」
「5時間は切りたいっすねー。完走はできるはず」
各々しっかりと練習を積んできていて、友だち2人も完走の自信はあるようだった。
「それぞれのペースで行こう!ゴール地点で合流で!」
「OKっす!」
そんな話をしながらスタート地点で待機していたように思う。
初参加ということもあって、スタート地点はかなり後ろの方だった。スーパーアイドルのLIVE会場かのように、あたりは人で埋め尽くされていた。
「これスタートしても走れないよね」
「そうっすね。5分ぐらいは歩く感じじゃないすかね」
実際その通りで、スタートの合図がしてからも5分ぐらいは歩いていたので、拍子抜けした。いよいよか! と気持ちが昂っていったのは、徐々に前の人たちが走り始めたときだ。
「うわー、こっから42kmかぁ!」
「大丈夫かなぁ、なんか不安になってきた」
「もう走るしかないっす!!」
「がんばろう!!」
そうして、42.195kmの長い戦いの火蓋が切られた。人が多かったのもあって、すぐに友だち2人が自分より前にいるのか、後ろにいるのかわからなくなった。お祭り気分でアドレナリンが分泌されていたのだろう、20kmまでは案外余裕だった。
20kmを超えてからが地獄だった
20km地点までは、1km6分ペースで、一度も歩くことなく到達できた。時間にして約2時間。あと半分だ。このまま行こうと思っていた矢先、身体にガタがきた。右アキレス腱が痛い。一歩踏み出すごとに、ズキッとした痛みが走る。
そして22km地点で、ついに歩き出してしまった。沿道でストレッチをしたり、マッサージをしたりしてみるけれど、痛みは一向に治らない。時間に余裕があるとはいえ、歩いていたらどれだけ時間がかかるかわからない。
走る、足が痛む、歩く。延々とそれを繰り返し、なんとか歩みを進めた。20kmまではぐんぐんとゴールに近づいていく感じがしていたのに、1kmがとんでもなく遠く感じる。大体どれくらいのペースで進めているのか、それさえも徐々にわからなくなっていった。
30km地点。残り約12km。もうこの辺りからは記憶が曖昧だ。おそらくぼくは、行き場のない怒りを抱えていた。こんなにもしんどい競技に参加しようと決めた過去の自分に対してなのか、フルマラソンという競技に対してなのかわからないが、「どうしてこんなにしんどい思いをして歩いているのだ」「そもそも42kmを半日で走破するっておかしいだろ」と怒りながらぼくは歩いていた。
それなら止めてもいいんだよ、という悪魔の囁きが何度も聞こえた。けれど、耳をかさなかった。というよりも、見ず知らずの人たちの声援が悪魔の囁きをかき消してくれたのだ。
“応援は力になる”を実感した
「がんばれ!」「もう少し!!」「まだまだいけるよ!!!」
沿道にいる見ず知らずの人たちが、何度も何度もそう声をかけてくれる。もちろん自分だけに向けたものではないことはわかっていた。けれど、確実にぼくのもとにもその声は届いていた。
中には、ハイタッチをしてくれる人、塩分補給ができる飴を手渡してくれる人、変な動きをして笑わせてくれる人もいた。
「どうしてここまでしてくれるのだろう?」
相変わらず足は痛かったけれど、怒りは徐々に消え、心が温かくなるのを感じた。「最後までがんばろう」。自然とそう思え、歩みを進めることができた。
満身創痍。戦争を終え、勝利の報告を伝えるために約40kmの道のりを走った兵士と比べてしまうと、その言葉は少し大袈裟かもしれない。けれど、40kmを通過したときのぼくは、もう限界を迎えていた。いや、とうに限界を超えていた。
10歳ほど老いたような顔をしていたと思うし、痛む右足を庇うように変な歩き方をしていたと思う。残り2kmとはいえ、もう辞めていいよ、と誰かに言われたらすぐにその場に座り込んでいたはずだ。
それでもゴールできたのは、最後まで止まない声援のおかげだった。物理的にではないが、一歩一歩背中を押してもらっているような感じがした。
友だちのひとりはぼくよりも先に、もうひとりは少し遅れてゴールした。「やりましたね!」とお互いに讃えあっていると、ひとりの友だちが泣き出した。
「応援の声があったかくて」
どうやらぼくと同じように見ず知らずの人たちからの声援を全身で浴びたようだった。
オリンピックやワールドカップなどが始まると、テレビCMなどで「応援は力になる」という言葉をよく見かける。いままで「そうはいっても選手の実力でしょ」とどこか実感の伴わない言葉だった。
けれどフルマラソンに出場してみて、“応援は力になる”と身を持って体験できた。