ヴァイオリンが弾けるようになったら

ヴァイオリンを習い始めて、10年が経った。始めたのは、社会人になってからのことだ。

子どもの頃から、ヴァイオリンに対して憧れに近い気持ちを抱いていた。気品を放つ、孤高の楽器。自分のいる世界とは一線を画したところにあり、気軽に触れてはいけないような。

そうやって自分で作っていた壁を、乗り越えるのは案外簡単なことだった。「やりたい」と強く思いさえすれば、音楽はいつからだって始められるのだ。

わたしのこと

  • 年齢:30代
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  • ライフスタイル:夫と同居、インドア派時々アウトドア派、リモートワーク、夜型、音楽フェス好き

きっかけは試験の前日に

「大人になってからヴァイオリンを習い始めた」と言うと、「きっかけは?」と問われることが多い。論理立てて説明するのはなかなか難しく、大抵「急に自分でも弾いてみたくなったんだよね」と答えている。

「ヴァイオリンを習ってみたい」と思った日のことは、よく覚えている。翌日に簿記2級の試験を控え、早朝から机にかじりついていた。勉強の進捗は芳しくなく、この日の追い込みに賭けていた。

そんなとき、人は逃避行動に走りがちである。

BGMとして流していたDaizyStripperの楽曲に、ふと耳が引き寄せられた。彼らはヴィジュアル系ロックバンドなのだが、ヴァイオリンの演奏をしっかりと聴かせる曲がある。今まで何度も聴いてきたはずの、その繊細な音色に、なぜかこのとき強く心が動いた。「こんな音を、私も奏でてみたい」と思ってしまったのだ。

何かに心がとらわれると、周りが見えなくなってしまうのは私の悪い癖だ。このときも、簿記のテキストを放り出して、ヴァイオリンについて検索をし始めた。大人になってからでも始められるのか。楽器の購入やレッスンにはいくらかかるのか。家の近くに教室はあるのか。レッスンの体験はできるのか……

元々、ヴァイオリンという楽器には漠然と憧れを抱いていた。小学生の頃、同じクラスの“お金持ちの男の子”が習っていると聞いたからかもしれない。中学や高校では、吹奏楽部に入りさえすれば木管楽器や金管楽器はすぐに始められるが、ヴァイオリンを弾く機会はない。ヴァイオリンは私にとって、手の届かない場所にある特別な楽器だったのだ。

そんな昔からの憧れが、よりにもよって試験の前日に噴出してしまった。結局、夜までヴァイオリンについて調べ続けた結果、試験には落ちた。

初めての演奏

高校生のときにギターやベースを少し弾いていたので、弦楽器に触るのは初めてではない。けれど、ヴァイオリンの指板には、フレットと呼ばれる音階の目印になる金属がないため、弦のどこを押さえればどの音が鳴るのかを覚えるのが難しそうだ。そもそも、自分にきれいな音色は出せるのだろうか。

不安を抱えながらも、近くのヴァイオリン教室の体験レッスンに行ってみることにした。

10年以上前のことなので、残念ながら体験レッスンで何をしたのか、詳細には覚えていない。楽器の持ち方を教わり、弓を引いて音を出してみるなど、基本的なヴァイオリンの扱いについて教わったはずだ。

意外とすぐに音が出せるんだな、と驚いたことは覚えている。中学校の吹奏楽部で私が吹いていたサックスは、まずリードという薄い板を震わせて音を出す、ということが難しい。一方で、ヴァイオリンは弓を引けば音が出る(その音がきれいかどうかは置いておいて)。

絶対音感は持ち合わせていないため、音程が合っているのかはよくわからなかったものの、初めての楽器を奏でるという体験はとにかく楽しかった。興奮が冷めやらぬまま、すぐに入会を決めた。

目標は特になかった。ただ、いつか自分の結婚式で、演奏のお披露目ができたら素敵だな、と思っていた。両親はともに音楽が好きなので、きっと喜んでくれるに違いない。その時点では、お付き合いしている人もいなかったけれど。

マイペースに続けた10年間

レッスンは月に3回あり、日曜日の午後に通うことにした。最初は3人でのグループレッスンだったが、だんだんと上達具合にばらつきが出てきたので、先生と相談して個人レッスンに切り替えた。

マンションに住んでいるので、近所迷惑にならないように、家での練習は消音器をつけて行う。消音、と言っても、どきっとするほど大きな音が出る。

この10年を振り返ると、正直、練習熱心な生徒ではなかったと思う。いつか結婚式で弾けたらという程度の動機で始めたため、他に優先したいことがある時期には、まったく練習をしないままレッスンへ行くこともあった。旅行などがかぶり、レッスン自体をお休みすることも珍しくなかった。

それでも、少しずつできることが増えていった。運弓がスムーズになり、音程もある程度正しく取れるようになってきた。指の動きが追いつかない曲も、練習を重ねれば弾けるようになる。社会人になってから、成長を感じられる機会は仕事ぐらいしかなかったが、ヴァイオリンの演奏でも進歩を感じられるようになると、日々の充実感が増す。

弾けるようになって嬉しかったのは、『オペラ座の怪人』や『情熱大陸』など。『ユー・レイズ・ミー・アップ』のような、ゆったりと聴かせる曲も弾いていて楽しい。

印象に残っているのは、発表会だ。教室の生徒同士で演奏を披露し合うクラスコンサートは、20人程度で行う小規模なものだが、それでも人前に立って弾ける貴重な機会だった。完璧に弾けるようになるまで練習したと思っても、いざステージに上がると緊張して手が震える。他の生徒の演奏にも刺激を受け、「もっと練習しよう」とモチベーションが上がった。

2年に1回は、大ホールでの発表会がある。こちらは生徒以外も聴きに来られるので、観客の数はぐっと増える。少しかしこまったワンピースに身を包み、舞台袖でどきどきしながら順番を待つ。夫と父親が演奏を聴きに来てくれて、こそばゆかった。

踊れるヴァイオリニスト、リンジー・スターリングのMVをYouTubeで観ながら、いつかあんな風にのびのびと演奏できたら楽しいだろうな、と夢想する。簿記2級試験の前日と違うのは、今は多少なりともヴァイオリンが弾けて、その夢がまったく叶わないものではない、と思えることだ。

楽器を弾く時間とは

家庭の事情もあり、来月、レッスンを辞めることになった。

結婚式は結局あげなかったので、何のために練習を続けてきたのかは、もはやよくわからない。でも、目的なんてなくてもよいのかもしれない。自分で音楽を演奏するということ自体が、純粋に楽しかったな、と思う。

この10年で弾ける曲がたくさん増えたので、レッスンを辞めてからも、時々ヴァイオリンを手に取って、気分転換に弾こうと考えている。せっかく10年も練習を続けてきたので、弾き方を忘れないようにしたい。できれば、新しい曲にも、自力でチャレンジしてみたい。

一人で楽器を弾く時間は、自分と真正面から向き合う時間でもある。そんな時間を、これからも大事にしていきたい。

東樹詩織

食や旅の領域でPR・ブランディングに携わる傍ら、執筆活動を行う。アートと本にのめり込み、「as human footprints」名義でZINE出版を開始。写真と動画の撮影・編集も。最近の関心事は、アジア各国のカルチャー、映画、海外文学、批評、3DCG、AI。キャンプ好きが高じて、東京↔︎信州・上田で2拠点生活中。