小学生の頃、見知らぬ女の子から手紙をもらったことがあった。下駄箱だったか、机の中だったか、綺麗な白い封筒に入れられていた手紙を見つけた瞬間、これはもしやと胸が高鳴ったのを覚えている。
「あなたのことが好きです」
その文字を読んだとき、手が震えた。全身から湯気が出るほど、体温が上がった。和太鼓のように、心臓が鳴った。人生で初めてのラブレター。食い入るように手紙に書かれた言葉を何度も読んだ。
いまならば、すぐに気づくことができる。あれは間違いなく、誰かのイタズラだった。手紙の最後には「赤リボンをつけた女の子より」と書かれていた。赤リボンをつけた女の子など、学校中を探してもいなかった。
当時のぼくはきっと単純で、呆れるほど馬鹿だったのだと思う。どこかでイタズラだとわかっていても、もしかしたらぼくに熱い視線を向けている子がどこかにいるんじゃないかという淡い期待を捨てきれずにいた。
なんと情けない思い出か。けれど、20年近く経ったいまでも、ふいに思い出してしまう。ラブレターというものにはそれだけの力が宿っているのだ。
ラブレターを送り合う会に参加
おそらくほとんどの人が書いたことも、もらったこともない特殊なラブレターの思い出もある。それは一度も会ったことがない人と送り合ったラブレターだ。
知人が主催していた「ラブレターを送り合う会」というイベントに参加したときのことだった。オンライン上で行われたイベントで、見ず知らずの人とペアになって少し話したあと、お互いにラブレターを書いて送り合うというものだった。
参加者は全員画面オフ。ZOOMに表示される名前はわかるけれど、それが本名なのかどうかもわからない。ある程度説明を聞いた後、ぼくは同世代の女性の方とペアになって、ブレイクアウトルームで話をし始めた。
「緊張しますね」
「そうですね、はじめましてですし、顔も見えないし」
そんなぎこちない感じでスタートした。
「ラブレター、書いたことありますか?」
そう質問したのがぼくだったか、相手だったか忘れてしまった。それほど、ぼくは緊張していたのだ。
「いや、あんまり。とりあえず自己紹介しますか」
お互いの仕事のことや家族、趣味の話など、いろいろと話した。30分ぐらいだっただろうか。あっという間に時間は過ぎていった。
「そろそろラブレターを書きましょう」
つい30分前にはじめて話した相手。しかも顔もわからない。ラブレターなんて書けるだろうか。そんな不安を抱きつつも、ぼくはノートを開き、そこに相手に送る愛の文を書き始めた。
愛を伝え合うことは恥ずかしい?
話してくれた内容、声のトーンや声色、そこから感じ取れる相手の雰囲気をひたすら言語化してみる。落ち着いた声、優しそうな雰囲気、家族の話をされているとき少し嬉しそうだった気がする…。
自分は一体相手のどんなところに興味をそそられたのだろうか。どこに心が動いただろうか。相手の心の機微を捉えることはもちろん、自分の心の機微も捉えようとさまざまな問いを立て、じっくりと考える。
瞑想をしている感覚に近かったように思う。さまざまな考えや言葉が頭の中に浮かび、これだというものを掴み取る感じ。考え過ぎて途中で、「そもそも愛とはなんだろう」という途方もない問いも浮かんだ。けれど、それはいま考えても仕方がないと横に置き、ラブレターの内容をどうするか考え直した。
これも30分ぐらいだったと思う。ラブレターと呼んでいいかはわからないが、一応完成した。相手に向けて読み上げる。
「ありがとうございます。嬉しいです」
相手は喜んでくれているようだった。「好きです、付き合ってください」というラブレターのように別に相手に何か返事を求めているわけではないから、このあと何を話せばいいのかわからなかった。
「これ、めっちゃ恥ずかしいですね」
やっと出た言葉がそれだった。相手からのラブレターを受け取ったときも、恥ずかしいという言葉を連呼した。そして、新たな問いが頭に浮かんだ。なぜ愛を伝え合うことが恥ずかしいのだろう、と。
愛することの習練不足
ドイツの精神分析学者エーリッヒ・フロムは、ベストセラー『愛するということ』に、愛についてこのように書いている。
愛とは感情ではなく、技術である。
ここでいう愛とは、恋愛に限った話ではない。家族愛、友愛、自己愛などすべての人に対する態度である。つまり技術を身につけることで、対象を問わず、愛することができるということだ。
またフロムはこうも述べる。
幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。
愛されることは相手次第であって、自分でどうにかすることはできない。そうであるならば、どう愛されるかを考えるよりも、まず愛する技術を身につけなさいということなのだろう。
もしフロムの言うことが正しいならば、ぼくが愛を伝え合うことを恥ずかしいと思ったのは、おそらく愛することの習練不足なのだろう。家族や友だち、恋人などを愛するということが不足しているのだ。
では、どうすればすべての人を愛することができるのだろうか。残念ながら、この本の中では詳しく書かれていない。愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はないからだという。つまり人を愛するには、人を愛する経験をするしかないということだ。
愛するには信念や勇気が必要だ
「いやいや、それができないから困っているんじゃないの、フロムさん」
そう思わなくもないけれど、フロムはこうも書いている。
愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。
信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。
この箇所を読んだとき、胸が締め付けられるような感じがした。そうか、ぼくには信念や勇気が足りていないのかとハッとした。
思えば昔から、ぼくは人とのコミュニケーションにおいて、ある恐れを抱くことが多かった。その恐れとは「相手を傷つけてしまうのではないか」「相手に嫌われてしまうのではないか」というものだ。だから、誰に対しても壁を作ってしまっていた。周りからは「優しいね」と言われることもあったが、それと同時に「壁がある感じもする」とよく言われた。
本音を言わない、相手が望むような言葉を吐き出す、踏み込まないし、踏み込ませない。そのように人と一定以上の距離をとることで、自分も相手も傷つかないように取り繕っていた。嫌われないようにと常に気を遣っていた。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。
ぼくはおそらく、人を愛そうとしていなかった。愛する技術を磨こうともしていなかった。危ない橋を渡らずに、楽に手にいれられるかりそめの愛に浸っていたのだと思う。
愛すると決めること
ラブレターを書く、またはラブレターをもらうという行為は、ぼくは愛することの習練になるのではないかと思っている。
ラブレターを書くには、相手に興味関心を持つ必要がある。どんな考え方で、どんな話をしていて、その背景にはどんな価値観があるのか。相手にとことん集中し、知ろうとすることは、愛に必要な要素のはずだ。
それにラブレターをもらうと、自分でも気づいていなかった自分の側面が見えてくる。例えば褒められているのにも関わらず、「いやいや、そんなことないですよ」と否定している自分に気づく。なぜ否定してしまうのかという問いを立てる。
そして、その問いにじっくりと向き合うことで、何が原因で自分を愛せていなかったのかが少し理解できたりする。もっと自分を愛そうと態度を改めることができたりする。
別にラブレターである必要はないのかもしれない。どんな手段であっても、愛することを経験できればいい。
愛とはなんだろう。その答えはまだよくわからない。けれど、フロムが言うように自分を含めて誰に対しても愛するという信念や勇気を持つこと。つまるところ、愛すると決めること。ときには傷つき、傷つけ、つらい思いをすることもあるかもしれないけれど、それが大事なのだ。