前回、『思い出の中の食べ物』シリーズ第一回で、小学校給食の話を書いたら、学校のことに限らずその頃のことがあれこれ思い出されてきた。
その中でも食べ物にまつわる鮮明な記憶が、サザエのことだ。
あのときわたしはサザエを食べていない。大人たちの口の中へ消えていく貝を、指を咥えて見ていただけだ。
今日はちょっと、わたしとサザエの馴れ初めを聞いてほしい。
わたしのこと
- 年齢:28歳
- 性別:女
- 職業:少女漫画ライター
- ライフスタイル:誰かと同居、インドア派、リモートワーク、夜型、外食派
サザエは網の上で焼かれていた
当時、サザエと聞いて思い浮かぶのは、お財布を忘れて愉快なあのサザエさんだけで、食べ物のサザエなんて全然知らなかった。
それが、家族旅行で行った式根島で、泊まった旅館の夕飯に突然現れたのだった。
旅先の夕食
夕飯は和食の御膳だった。
並ぶ小鉢、焼き魚、ご飯、汁物、そしてひとりひとりの前に据えられた小さなコンロ。
そのどっしりと存在感のある黒い物体は、なぜかわたしの前にだけなかった。
何に使われるのかと思っていたら、やがて火がつけられ、網の上で大きい貝が焼かれ始めた。
しばらくすると中からじゅわじゅわと泡がにじみ出てきて、立ち昇る磯の香りがわたしの鼻をくすぐるのだった。
分けてもらえるとばかり思っていた
親にそれがサザエという名前だと教えてもらい、わたしの中でワクワクが高まっていった。
元来知らない食べ物は何でも食べてみたいタチで、これまで見たこともないような大きい立派な巻貝はさもおいしそうに見えた。
それに普段母は何でもわたしと半分こしてくれる人だったので、当然今回も分けてもらえると思い込んでいたのだ。
いよいよ貝の内奥から湯気を立てて身が引きずり出された。
思っていたより小さかったけれど、やっぱりおいしそうだ。
それなのに。今か今かと待ち構えるわたしに母は言った。
「大人の食べ物だから、これは分けてあげられないよ」
えっ? 肩透かしを食らった気分で、呆然と母を見た。少し遅れて、なんでなんで攻撃。
でも無念にも、貝は困ったように笑う母の口の中へと消えていった。
食べたかったワケ、食べられなかったワケ
あのサザエのことが忘れられないのは、母の言葉に受けた衝撃が大きかったことが最大の要因だ。
それは明らかなのだが、なぜわたしはどうしてもサザエが食べたかったのか。母はなぜああ言い、わたしはそれをどう感じたのか。あえて突っ込んで考えてみたい。
サザエが放っていた魅力
先ほども書いたが、わたしは幼少期から冒険心が旺盛で、食べたことのないものに率先して挑戦したがる子どもだった。だから未知の食べ物・サザエに興味津々だった。
その上、網の上でじわじわ焼かれていくそれは何ともおいしそうだった。
思えば、目の前で魚介が焼かれていくのを見るのも、このときが初めてだったかもしれない。
滅多に食べられないものだろうと何となく察していたことも、是が非でも今食べたいという思いを強めていたに違いない。
母の言い分
“子どもだから”サザエを食べるにはまだ早い。味わって食べられないだろう。
母の「大人の食べ物」という言葉には、こういったニュアンスがある。
旅館としても「苦くて子どもにはおいしくないだろう」と判断していたのだと思うし、味覚の問題以前に、火が危ないから子ども用の御膳にはコンロをつけなかったのかもしれない。
ふたりで分けられるようなものでもなかったし、母もせっかくのごちそうを食べたかったのだのだと今なら分かる。
でも、“子どもだから”という理由でサザエを食べることを断念させられたのが嫌だった。
大義名分のように掲げられたこの言葉は、わたしにモヤモヤを残していった。
あのときのサザエが忘れられない
子どもだからダメ、と何かを禁止された経験がある人は多いのではないだろうか。
そうしたとき、あなたは大人に少なからず反感を抱かなかったか。
少なくともわたしは、二十年経った今でもサザエの無念が忘れられない。式根島がどんな所だったかとか、何をしたかとかはさっぱり覚えていないのに、我ながら執念深いものである。
子どもと大人の区別
年齢制限で何かを阻まれることは、子ども時代にはありがちだ。
確かに未熟な体や心にはそぐわない物事というのが、社会にはあれこれ存在する。
でもなにせ未熟なものだから、その事実を潔く認めることってなかなか難しい。
頭ごなしに反対されれば、子ども扱いされたことが悔しくてムキになって反発したくなってしまう。
「子どもだから」「大きくなったらね」「まだ早いよ」。
つい言ってしまう気持ちも分かる言葉だけれど、言うときはせめて納得できるようにその理由も一緒に伝えてほしいと子どもの目線では思う。
なぜ子どもには駄目なのか。
ここが腑に落ちるかどうかが、子ども扱いされていると憤りを感じるかどうかの分かれ目だ。
納得できないと、何年経ったら大きくなったことになるのか、大人だってそんなに立派なものなのかとついつい屁理屈をこねたくなるものだ。
特に今回の場合なんて、子どもが食べたら毒になるものでもないし、食べさせてくれたってよかったじゃないか。
何事も経験だという言葉もあることだし、たとえ食べてみてまずいと感じたにせよ、最初から食べさせないのは違う気がする。
それに子どもには分からないからと最初から区別されてしまうと、仲間外れにされたようで寂しい。
食べ物の恨みは怖い
つらつらと当時のわたしが感じた不満を書いてきたが、何が言いたいかって結局は、サザエわたしも食べたかった! ということに尽きる。
この前も言ったが、とかく食べ物の恨みは怖いものである。
何年経ってもあのたったひとつの貝のことが忘れられないのだから…。
改めて振り返ってみて
「子どもだから○○」という言葉は、言われる相手やその言い方、シチュエーションによっても感じ方が全然違うし、とても難しい表現だ。
便利だから自分も使ってしまいそうだけれど、そこはぐっとこらえて、別の表現を模索できたら。
他の誰かの心に、自分のようなモヤモヤを残したくない。
相手が誰であろうと、真摯に向き合える大人になりたいなあ。
“大人”になって食べたサザエの味は、噛めば噛むほど旨味が出てきておいしかったけれど、何をおいても食べたい絶品というわけでもなく。
過去の印象が強すぎて、実物の記憶はそれほど鮮明には残らなかった。
まあリアルってそんなものだろう。
余談
実はこの旅館ではもうひとつ事件が発生した。それは、トイレ閉じ込められ事件。
鍵が固かったのか、掛け方が少し変わっていたのか、トイレから出られなくなり、パニック状態になってしまった。
旅館中に響き渡るような大声で泣き叫び、それはもう大変な騒ぎだったそうだ。
そんなわけで式根島行きは、サザエともども忘れられない旅行となったのだった。