石田博貴(いしだ ひろき)さん
会社員/データアナリスト
1991年、群馬県生まれ、神奈川県横須賀市在住。大学時代は土木工学を学び、データマイニングやモデリングの研究に携わる。Webリサーチ系の会社に入社して、営業やマーケティングリサーチなどを担当。2020年に大手人材企業に転職し、統計学の知見とマーケティング領域への高い理解度を生かした独自手法でクライアントをサポートしている。
「若い頃の自分は、本当にクソ生意気でした」三浦海岸をのぞく一室で、石田さんは笑いながらそう語ります。家族や親戚との確執をきっかけに、石田さんは「ひとりで生き抜く力」を追い求めるようになりました。目標に向かって走り続けたことで得られたものはなんだったのか。その半生を語っていただきました。
「ひとりでも生きられるように、強くならなくちゃ」
――石田さんの生い立ちについて教えてください。
生まれは群馬県吾妻郡というド田舎で、昔から正義感が強く自己主張の激しい子でした。年上にも当然のように意見するし、「生意気だ!」と怒られたり殴られたりしても、意地を張って糾弾し続ける。その有り余る元気を見かねてか、小学校から空手を習わさせられていました。
――幼い頃から反骨精神も強かったのですね。
この性格は、親父の影響が強いと思います。ザ・昭和な性格で、幼い頃はすごく厳しくしつけられました。
親父は私の進路にも、かなり大きな影響を与えています。大学進学までは、彼の言うとおりの進路を選んでいたくらいですからね。小さい頃から「土木を学んで手に職をつければ食いっぱぐれない」と聞かされていて、その言葉に疑問も持たず「将来は土木の仕事をする」と思っていました。
今思えば、親父なりに私の将来を心配してくれていたんだと思います。親父の言葉の通り、工業高校の土木科に進学しました。全国区の強豪である空手部に入部して、朝は1時間、放課後は3時間、土日は1日中と練習に明け暮れていました(笑)。
――かなりハードだ…!
高校時代は実家が田舎すぎて通学が大変だったので、叔母の家に下宿していました。他の親戚も近くにいるので安心していたんですが…。もともと親族問題でもめていたらしく、叔母や他の親戚からつらく当たられることが増えていきました。下宿している都合上、親兄弟に頼ることができなかったのはつらかったなあ…。
親戚との不仲は15歳そこそこの僕にとって、かなり強烈な出来事でしたね。この件がコンプレックスになったのか、「大人を簡単に信用してはいけない」「ひとりでも生きられるように強くならなきゃいけない」と強く思うようになりました。
――10代の少年がそう決意せねばならないほど、つらい出来事だったのですね。
そうですね。その後は高校2年から大学2年まで、2歳上の兄貴と暮らしました。ふたりの暮らしは単純に楽しかったです。兄貴が彼女を連れ込んでいれば気を利かせて外で時間を潰したり、スノーボードで大ケガした兄貴を親父と病院に連れて行ったり(笑)。兄貴は居酒屋でアルバイトをしていて、料理も教えてくれました。
絶対に見返してやる!ようやく見つけた自分の目標
――大学はどのような進路をたどったのですか?
親父の勧めもあって、指定校推薦を利用して大学に進学して、工学部土木工学科を選択しました。偏差値が低めの高校からの進学だったので、入学時点の成績が120人中100位ほどでスタートすることになって、かなり悲惨でしたけどね(笑)。
私が入学した大学は、高校の基礎的な科目を修めないと卒業できない規定がありました。なので、成績を巻き返すために大学1年生の前期は土曜日も学校に通っていました。このままじゃ卒業もままならないし、大学の講義についていけない。そんな焦りを抱えながら、必死に勉強しました。
そのかたわらで、他大学の学生と交流できるインカレサークルに入ったり、アルバイトをしたりしてキャンパスライフも満喫しました。もしかすると、この時期が人生でいちばん忙しかったかもしれません。
――お兄さんとは大学2年生まで一緒に暮らしていたのですよね。
はい。大学3年生からひとり暮らしを始めました。この頃、私の人生を決定づける出来事がありました。実家に帰省して家族で過ごしていたあるとき、親父と兄貴の会話に加わろうとすると「お前の話なんか聞く必要がない」と一蹴されたんです。
親父も兄貴も尊敬すべき人物ではあるのですが、昔からたびたびこういったマウンティングを受けることがありました。そういう場面に遭遇すると、これまではぐっとこらえて我慢していたんですよね。
――昔からのことなんですね…。石田さんはなぜ我慢していたのですか?
10代のとき、親族問題を間近で見たことが影響していると思います。親父が自分の親兄弟ともめているのを見て、すごく心苦しかったので。「自分は大人しくして、何も言わず黙っていよう」。そんな思考回路が、家族に対しても働くようになりました。
そんな我慢が限界に来たのか、20歳の大人になってまでぞんざいに扱われることが我慢できなかったのか…。このとき、私は「なぜこんな扱いを受けなきゃいけなんだ!」と、死ぬほど悔しくなったんです。絶対にこいつらのことを見返してやる!そう決意しました。
そのためには何をすべきなのか、必死で考えました。まずは、これまで親父の言うとおりにしていた進路から離れて、土木以外の選択肢を見つけようと思いました。その上で、どうすればふたりに認めてもらえるのかを考えて、思いついたのが「稼ぎで見返す」だったんです。
そして、大学時代に「30歳までに年収1,000万円稼ぐ!」という目標を立てました。
――心無い言葉を受けたことをきっかけに、今までとまったく違う人生を模索しはじめたのですね。
そこからは、本を読んだり人と会ったりしながら、今までと違う生き方を探すようになりました。そこでたまたま出会ったのが、谷本真由美(めいろま)さんの『ノマドと社畜』です。大学生の頃、場所を限定せずに活躍する「ノマドワーカー」の存在に注目が集まっていました。谷本さん自身も、国連職員などで世界各国で活躍していたと記憶しています。
彼女のような生き方があるのか!と感銘を受けました。社会人として、そんな選択肢があることをまったく知らなかったので。ノマドワーカーになるために、何を学ぶべきか必死に考えました。そこで、行き着いたのが「英語」と「データ分析・統計学」です。
――なぜそのふたつを選んだのですか?
英語を選んだ理由は単純で、海外でも活躍できる人材になりたかったので。データ分析と統計学を選んだのは、土木工学の勉強のなかでいちばん興味があった分野だったからです。でも、土木は働く場所が現場に限定されてしまうので、職種は見直したいと思いました。自由にどこでも働ける職種の中で需要が高まると言われていたデータサイエンティストを選び、これから必要とされる人材を目指そうと考えました。
20代前半で経験したふたつの大失敗
目標が決まると、アルバイトで留学費用を貯めて大学3年生のときにモンゴルへ語学留学しました。データ分析と英語力を培うために、大学院にも進学しました。ただこのときも、嫌な大人に振り回されましたね。アルバイト先では、店主がすごく悪いやつであやうく留学費用をかすめ取られそうになったり、大学で選択した研究室も、教授がものすごく嫌味な人だったり。
特に研究室の方は、在学の途中で追い出されちゃったんですよ。まあ、同じ領域で別の研究室にお世話になることができて、国内外の学会にたくさん参加することができたので、結果オーライではあるんですが(笑)。
――いろいろと苦労されたのですね。
もちろんイヤなことばかりではありませんでしたよ!大学生活では、「こんな大人になりたい!」と、心から思えるような先輩にも出会えました。
――大学院を卒業後は、どのような仕事に就かれたのですか?
購買データを扱うベンチャー企業に、念願のデータアナリストとして内定をもらいました。ただ、入社前に所属するはずの部署が事業撤退でなくなってしまったので、実際には営業やマーケティング・リサーチを担当していました。
それでも、英語力を活かして海外チームとやり取りできたし、学生時代以上に多くの人や情報に触れる機会に恵まれました。残業ばかりの毎日を送りながら、自分でも「やりきった!」と言えるくらいには仕事に没頭しました。
ただ、そんな中で、私はふたつの大きな「やらかし」を犯してしまったんです。
――ん!?やらかし?何かあったんですか?
ひとつめは、借金をして情報商材を買ってしまったこと。当時付き合っていたバリキャリ女子の彼女にバレて、ボロクソに説教された挙げ句フラレてしまいました…。このときは、なんとか半年間で借金を返済できるよう、土日にアルバイトを入れて必死に働きました。
ふたつめのやらかしは、不動産投資詐欺にだまされてしまったことです。後に聞いてみたら非常に有名な手口の詐欺だったんですが、このときの私はそれを知るはずもなく。実際より1,000万円以上高い価格で不動産を購入してしまいました。
――1,000万円!それはいつの話ですか?
20代半ばだったかな。親父や兄貴を見返すために、なんとしても稼がなきゃ!そんな想いが裏目に出てしまったんですよね。それに「自分でなんとかしなきゃ!」という想いが強すぎて、誰かに相談するなんて発想もありませんでした。今振り返っても、本当に愚かだったと思います。
保護犬との触れ合いで学んだ素直さの重要性
今のように、お金稼ぎばかりに執着していてはいけない。変わらなきゃという焦りが生まれました。そこで見つけたのが、保護犬シェルターのボランティアだったんです。
──今までとは真逆とも言える活動に注目したのですね。
実業家の稲盛和夫さんが好きなんですが、彼は『生き方』という本の中で「無償の活動」について触れています。それを読んで、「自分に足りないのはこれだ!」と思いました。ちょうどタイミングを同じくして、知人が保護犬シェルターのボランティアを募集していることを教えてくれたんです。
――それが、保護犬に接する最初のきっかけになったと。
保護犬シェルターのボランティアを選んだのには、もうひとつ理由があります。保護犬と触れ合うことで、犬たちから「素直さ」を学べると思ったんですよ。
――素直さ?
社会人になってから、「自分には素直さが足りないんじゃないか」と思う場面が結構あったんですよね。相手に対して、とにかく理詰めな話し方で性格も悪い。加えて、すぐにお金の話をはじめるわけです。あの頃の私は、見るに堪えないクソガキだったと思います(笑)。
大学時代も素直で好かれている人の素晴らしさを認められなかったし、向き合うことができませんでした。10代で大人の薄汚い側面を目の当たりにしてから、どことなく世間に対してひねくれた見方をしていたんだと思います。
しかし、社会人になって人との関わりが増えていく中で、「自分はなんでこんなに可愛げがないんだろう」「もっと素直になりたい」と思うようになったんです。
――そこで、ボランティアを通じて保護犬の素直さに触れたいと思ったのですね。実際、ボランティアを通じて気持ちに変化はありましたか?
ありました!犬って素直で可愛いし、人間に無償の愛を注いでくれるじゃないですか。その姿を見て、私自身も大きく感化されている気がします。
ケガをきっかけに見つかった人生の目標
――20代前半で多くの挫折や気づきを得た後、現在に至るまでにはどのような出来事がありましたか?
20代半ば以降にも、多くのイベントがありました。まず2020年、丸の内に本社がある大手人材企業に転職しました。入社後すぐに年収がトンッと上がり、副業もはじめたので、収入が一気に上がりました。そして、気づいたら「30歳までに年収1,000万円を超える!」という目標を、ギリギリ20代で達成できたんです。
――すごい!有言実行じゃないですか!
仕事内容もやりがいがあるし、フルリモートで働けるのでコロナ禍の影響もありませんでした。
そして、忘れもしない出来事が2020年10月に起こります。コロナ禍で運動不足だったので、身体を動かそうとキックボクシングジムに通いはじめたんですよ。そこでアキレス腱を切ってしまって。激痛はもちろんのこと、松葉杖での生活がとても不自由でした…。
でも、それ以上に、ケガをしたことをきっかけにメンタル面のダメージが大きくて、ものすごい虚無感に襲われてしまったんですよね。
――それは、なぜですか?収入も確保されていて、リモートワークで通勤の心配もない。
長年追いかけ続けた目標にたどりついたら、何をすればいいかわからなくなってしまったんです。これからの人生で、やりたいことが何も思いつかないという状態でした。
どうしようと思い、とりあえず「心の休暇を取ろう」と決めました。これまで必死に走ってきたおかげで、20代の目標は達成できた。30代・40代の目標を立てるために、2〜3年は落ち着いた場所でのんびり働こうと思ったんです。
これまでは都内に住んでいましたが、改めてどんな環境が自分に合うのかを考えるようになりました。そして、保護犬活動で知り合ったカメラマンさんがおすすめしてくれた、神奈川県の三浦半島を選んだんです。
――三浦半島のどのような点が、石田さんの移住を決断させたのでしょうか?
いちばん大きなポイントは、自然が豊かなことですね。家から歩いてすぐに美しい海があり、山も近い。東京にも1時間ちょっとで行ける。言うことなしだと思いました!
ケガをした翌年の2021年1月には歩けるようになってきたので、少しずつ準備を進め、5月末に引っ越しました。僕をよく知る友人からも「三浦に引っ越してから性格が穏やかになった」と、言われています(笑)。
――ケガをきっかけに、ご自身の今後を見つめ直したことがプラスに働いたのですね。
移住して2年が経過した2023年5月には、とてもうれしい出来事がありました。不動産投資詐欺で押し付けられた物件をうまく処分することができたんです。私の事情をよく知る不動産屋さんが手を尽くしてくれたおかげで、大きな損失はほとんど発生しませんでした。
この不動産は私にとってもっとも後ろめたい存在でした。それを無事に手放せたので、とてもホッとしています。
――ここ数年で、石田さんが抱えていた問題がとてもいい方向に精算されていきましたね。移住して2年以上が経過しましたが、今後の人生でやりたいことや目標は決まりましたか?
仕事のキャリアについては、ある程度納得できる状態かなと思っています。今は、保護犬の活動にもっと力を入れていきたいです。保護犬の受け入れボランティアもしたいし、ドッグトレーナーの資格も取りたいな。
準備が整ったら、自分自身でも保護犬を受け入れたいと思っています。保護犬と一緒に大切な思い出を作っていきたいし、犬を飼うことで今よりも人に頼れるようになりたいなって思っています。
――というと?
比較的早い段階から親元を離れて育ってきたので、自立を促されてきました。そのせいか、身の回りのことをひとりでできない人に対して、すごく厳しく当たってしまうところがあります。でも、ひとりで頑張ろうとした結果、いろいろな間違いを犯してしまいました。
犬を受け入れることになれば、私自身も保護犬のシェルターや動物病院などにお世話になることも増えるかもしれません。シェルターの仲間からはよく「人から助けてもらってもいいんだよ」と言われます。
保護犬の力も借りて、人に頼る素直さを手に入れたいなと思っています(笑)。そうやって、人としてもう一段階成長したいですね。