料理がそばに居てくれた

毎日、何か料理を作らずにはいられない。

帰りが遅くなったり、疲れていたりしても、キッチンの前に立っている自分がいる。別にストイックというわけではなくて、とりあえず簡単なもので構わないので、1品でも何かしら作るんだ、といった小さな衝動みたいなものが沸いてくるように思う。

たまに「今日はお弁当を買おうか?」と自分に問いかけてみるけれど、少し悩んだあと、やっぱり家に帰って作ろう、に落ち着く。

「Sense of…」仲間のライターの東樹さんが、これまでの料理との付き合い方について書いている記事がある(『こうやって、料理と付き合ってきた』)。暮らしが変わるにつれ、料理との関わり方も変わっていくことが書かれているのだけれど、そのときだからこそ作れた料理があり、今だから作れる料理があるのだと感じさせてもらった。そして、料理がその人の暮らしとともにあることを感じる、すてきな記事だ。

これを読んで、私も料理と自分のことを考えてみようと思う。これから先、私はどのように料理との関わっていくのだろうか。

なぜ料理を作ろうとするのだろうか。

これまでの料理は非日常的

最近ひとり暮らしをはじめたのだが、実家暮らしのときは恥ずかしいぐらいに甘えっぱなしで、料理をすることはほとんどなかった。たまに料理をするとすれば、家族の誕生日などのイベントごとがあるときや、外で食べたご飯がおいしくて、そのメニューの再現を試みるといったような感じ。このとき、私にとって料理は、生活のためというより、プチイベントみたいな非日常のものだった。

気まぐれな料理との向き合い方ではあったけれど、せっかく料理をするのならこだわりたい、という欲が急に出て、食材にお金をかけたり、レシピ通りの食材を揃えたりした。パッタイを作りたくて、ナンプラーを買ってみたり(一度しか使わなかったが)、料理ではないけれど、スパイスを買ってきて、スパイスコーラを作ったりもした。気合だけは十分だった。

母は料理上手で、1日の栄養バランスを考えた食事を毎日作ってくれていた。健康に過ごせているのは、そのおかげだと思っている。風邪もひかないし、ハードな日々に追われながらも、体調を崩すことはめったになかった。だからせっかく母のすばらしい食事で出来上がった健康体を失いたくなかったし、自分も母みたいに料理上手になりたいと思った。

「ブロッコリーは食物繊維豊富でミネラルやビタミンなどの栄養バランスがいいから毎日食べたらいいよ。卵も1日1個、大豆製品も積極的に取り入れてみて」と母からのアドバイスもあり、母の知恵を借りながら、31歳にしてようやく、生きるための料理がはじまった

これが食べたいを大事に

料理をするようになって、「今日自分は何を食べたいのだろう」と考えるのが楽しいと思うようになった。それは自分と向き合うことにもつながっているように思う。

実家にいたときは、ありがたいことに料理が自動的に出てくる。あれを食べたいと要望を出すこともあったけれど、「今日のメニューは何だろう?」と想像するような今とは違う楽しみがあった。

ところが今は「今日は身体が冷えたから、お味噌汁で温まりたいな」とか「こってりしたものよりヘルシーなお魚を食べたいな」というように自分に向き合いながら献立を考える。小さなことかもしれないけれど、自分の声を聞いてあげられているんだ、と感じてうれしくなる。

料理は「今の自分」をうつし出す

私の料理は本当に簡単なものばかりだ。基本的に野菜や肉を炒める。もしくは蒸し野菜にする。いろいろな調理方法を試したいとは思うけれど、まずは自分のできる範囲からはじめている。

ひとり暮らしをはじめたての時につくった、豚バラとトマトのバジル炒めは我ながら絶品だった。実家ではトマトをそのまま食べるか、ミネストローネのようにスープとして味わうことが多かったので、トマトを焼いてみたいと思っていた。たまたまスーパーでバジルを見つけ「冷蔵庫にある豚バラと合わせれば、おいしくなりそう…!」と意気込んで家に帰ったのを覚えている。

こんなふうに、かちっとピースがハマるようにうまくいく日もあれば、なんだかうまくいかない日もある。野菜を炒めていてもどこかうわの空で、味見してもなんだか味が定まらない。いつのまにか少し焦げてしまっていた。野菜の切り方も乱雑で、きれいに盛り付けようとしてもうまくいかなくて、荒々しい感じ。

ああ、今日は疲れているんだな…

と感じたのだ。日々の料理を通じて、自分の変化や状態を敏感にキャッチできるようになっているのだと思う。自分のことを省みるような、料理と自身の新たな関係性が生まれていると気づいた。

料理は柔らかいクッション

野菜を洗う、皮を剥く、野菜を切る、炒める、味付けをする。それらの工程は淡々と進んでいくように思うけれど、とても心地よい時間だと感じる。

なぜかというと、料理を作ることに集中しつつも、考えを巡らすのにちょうどいいからだ。処理しづらいさまざまな感情に向き合う。決断しないといけないことを頭に思い浮かべる。投げかけられた言葉の意味を考える。

常に頭の中が考えごとでいっぱいになってしまのだけど、料理をしているときは、考えなければならない問題と適度な距離を保ちながら、向き合うことができているように思う。軽やかに、客観的に思考できていると感じる。

物事に真正面から向き合い過ぎてもしんどいときがある。これは逃げようとしているわけではなくて、料理をすることが緩衝材のような柔らかいクッションとなって守ってくれているような、そんな感じだ。料理しながら考えごとをしたときは、なんだかすっきりとして、前向きな気持ちになっている。

今日もおいしいご飯を食べたい

この2ヶ月ほど、ひとり暮らしをはじめたり、転職したり、あらゆることががらっと変わって、めまぐるしい日々だったのだけれど、元気に過ごせたのは、きっと料理があったからだと思う。

自分でも驚いているのが、こんなにも料理がそばにいてくれていたことに気づいた

そして私は料理が好きなのだろう。まだまだ料理初心者で、料理をするとすれば、炒める、煮るぐらいしかできなくて、レパートリーも少ない。味付けも単調だし、使う調味料も限られている。こんな状態で、料理好きと言っていいものか自信はないのだけれど、料理をもっと好きになっていきたいと思う。毎日、おいしいと言いながらご飯を食べたい。

「今日もおいしいご飯が食べたいから」

これがきっと、私が毎日料理をする理由だ。

はしもとかほ

「誰かの人生のものがたりを紡ぎたい」をテーマに、インタビューライターとして活動中。趣味は京都散策、読書、写真、食、アートに触れること。いつか書評を書くのが夢。